高槻城主の右近が埋めた?!戦国時代の堀が見つかる!~ 最近の城跡発掘調査で分かる! ~
- 2018/06/07
- 16:02
江戸時代に国外追放されたキリシタン大名、高山右近(1552年頃~1615年)が
城主を務めた高槻城跡から、右近が埋めたとされる戦国時代の堀が見つかったんだそうです!!!

(画像:https://mainichi.jp/articles/20180531/ddl/k27/040/327000c アクセス日208年6月5日)
その時代は城の防御機能の強化等のために、
城郭の拡張が進んだ時期だったとされていて、
関係者は「戦乱期に備えて、
右近が新たな城づくりを進めようとしていた過程がわかる貴重な発見だ!」と云っています。
このことは、江戸時代で云う二の丸跡に当たる「城跡公園野球場跡地(野見町)」の
発掘調査で見つかり、市教委が先月末に発表しました。
高槻城は1573~85年、右近が城主を務め、
堀と土塁で囲まれた堅固な城として知られていますが、
その後、豊臣家を経て徳川家の直轄地となり、
1617年には西国大名への備えとして幕府が全面改修したんだそうです。
見つかった堀は幅約7メートル X 深さ約2.5メートル、長さ約60メートルで、
武将=和田惟政が城主だった頃に造られたとされています。
残念なことに、戦国時代の高槻城を描いた絵図は今に残されておらず、
市教委の担当者は「この時代の高槻城の姿を伺い知る大きな手がかりになる!」と強調しています。
堀は、後に城主となった右近が城を改修しようとして
埋め立てた可能性があるということなのです。
滋賀県立大の中井均教授(考古学)は「幅7メートルの堀は
当時としては標準的なサイズでしたが、それでは城を守り切れないというのが右近の時代でした。」、
「信長の時代、高槻城は地理的、軍事的な条件で重要視されていました。
大きな戦乱に備えるために右近が堀を埋め、
巨大な城に造り変えようとしていたのではないでしょうか?」と解説しています。
問い合わせ:市立埋蔵文化財調査センターへ(TEL.072-694-7562)
城主を務めた高槻城跡から、右近が埋めたとされる戦国時代の堀が見つかったんだそうです!!!

(画像:https://mainichi.jp/articles/20180531/ddl/k27/040/327000c アクセス日208年6月5日)
その時代は城の防御機能の強化等のために、
城郭の拡張が進んだ時期だったとされていて、
関係者は「戦乱期に備えて、
右近が新たな城づくりを進めようとしていた過程がわかる貴重な発見だ!」と云っています。
このことは、江戸時代で云う二の丸跡に当たる「城跡公園野球場跡地(野見町)」の
発掘調査で見つかり、市教委が先月末に発表しました。
高槻城は1573~85年、右近が城主を務め、
堀と土塁で囲まれた堅固な城として知られていますが、
その後、豊臣家を経て徳川家の直轄地となり、
1617年には西国大名への備えとして幕府が全面改修したんだそうです。
見つかった堀は幅約7メートル X 深さ約2.5メートル、長さ約60メートルで、
武将=和田惟政が城主だった頃に造られたとされています。
残念なことに、戦国時代の高槻城を描いた絵図は今に残されておらず、
市教委の担当者は「この時代の高槻城の姿を伺い知る大きな手がかりになる!」と強調しています。
堀は、後に城主となった右近が城を改修しようとして
埋め立てた可能性があるということなのです。
滋賀県立大の中井均教授(考古学)は「幅7メートルの堀は
当時としては標準的なサイズでしたが、それでは城を守り切れないというのが右近の時代でした。」、
「信長の時代、高槻城は地理的、軍事的な条件で重要視されていました。
大きな戦乱に備えるために右近が堀を埋め、
巨大な城に造り変えようとしていたのではないでしょうか?」と解説しています。
問い合わせ:市立埋蔵文化財調査センターへ(TEL.072-694-7562)
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