大塚洪水記念碑<おおつかこうずいきねんひ>
- 2014/03/29
- 14:35
大正6年(1917)10月1日午前8時40分、
大塚の堤防が台風による連日の大雨により決壊し、
濁水が大冠地域一帯を呑み、高槻町(現在の高槻市)に甚大な被害をもたらしました。
これが世に言う「大塚切れ」です。
台風がもたらした大量の雨により淀川本流、支流ともに水位が上昇し、
1日早朝には番田の芥川堤防が決壊、
ほぼ同時に芝生の堤防が290mにわたって決壊しました。
さらに、大塚の淀川本流の右岸堤防が大音響を響かせながら、
長さ約470mにわたって崩壊しました。
大塚堤防辺りの家並み数戸がアッという間に押し流され、
午後2時頃には天神山の山際あたりまで浸水し、
さらには安満・野田にも及んだことが記録に残っています。
この水との闘いを伝える碑として
昭和5年(1930)に「洪水記念碑」が建立されました。

午后四時頃最高水ナリキ、其間工兵隊ハ鉄舟ヲ出シ、
時々巡回シ避難民ヲ送リ出シ、役場連モマタ舟ニテ領飯ノ労ヲ取リ
「上西松太郎参考日誌」より

大塚切れでの被害は、大阪府下で死者・行方不明者22名、
全壊家屋212戸、浸水家屋等15500戸にのぼり、
浸水田畑5850ヘクタールといわれ、その大部分が高槻市域であった。


堤防の修復は10月6日から着工され、10月26日には再び淀川の増水で
完成間近の堤防が流失する被害が出たり、
水門の開閉をめぐって利害があい対立する二つの村民が
鍬・竹槍を持って対峙する場面もあったが、
11月8日から再び復旧工事が再開され、翌(1918)年4月30日に
当面の堤防改修工事は完成したと記録されている。

大塚洪水記念碑のある場所: 高槻市大塚4-6
大きな地図で見る
大塚の堤防が台風による連日の大雨により決壊し、
濁水が大冠地域一帯を呑み、高槻町(現在の高槻市)に甚大な被害をもたらしました。
これが世に言う「大塚切れ」です。
台風がもたらした大量の雨により淀川本流、支流ともに水位が上昇し、
1日早朝には番田の芥川堤防が決壊、
ほぼ同時に芝生の堤防が290mにわたって決壊しました。
さらに、大塚の淀川本流の右岸堤防が大音響を響かせながら、
長さ約470mにわたって崩壊しました。
大塚堤防辺りの家並み数戸がアッという間に押し流され、
午後2時頃には天神山の山際あたりまで浸水し、
さらには安満・野田にも及んだことが記録に残っています。
この水との闘いを伝える碑として
昭和5年(1930)に「洪水記念碑」が建立されました。

午后四時頃最高水ナリキ、其間工兵隊ハ鉄舟ヲ出シ、
時々巡回シ避難民ヲ送リ出シ、役場連モマタ舟ニテ領飯ノ労ヲ取リ
「上西松太郎参考日誌」より

大塚切れでの被害は、大阪府下で死者・行方不明者22名、
全壊家屋212戸、浸水家屋等15500戸にのぼり、
浸水田畑5850ヘクタールといわれ、その大部分が高槻市域であった。


堤防の修復は10月6日から着工され、10月26日には再び淀川の増水で
完成間近の堤防が流失する被害が出たり、
水門の開閉をめぐって利害があい対立する二つの村民が
鍬・竹槍を持って対峙する場面もあったが、
11月8日から再び復旧工事が再開され、翌(1918)年4月30日に
当面の堤防改修工事は完成したと記録されている。

大塚洪水記念碑のある場所: 高槻市大塚4-6
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