芥川宿(あくたがわじゅく)
- 2014/04/01
- 14:00
江戸時代の芥川村は西国街道の宿場町でありました。
宿駅が置かれ寛永年間(1624~44)以降は、
参勤交代の大名行列の通過などで賑わったといわれています。
この地は中世から近世(江戸時代)にかけて、
宿場町芥川・寺内町富田・城下町高槻と互いに関連しながら発展し、
京都と西宮を結ぶ西国街道は、東海道と中国路を結ぶ近道として、
参勤交代や旅客や物資輸送に利用されていました。

[画像:大阪府公式ホームページhttp://www.pref.osaka.lg.jp/kenshi_kikaku/keikan-ustukushii/100kei-018.html2014/03/25アクセス]
宿駅芥川宿は寛文年間(1661~73)には、
本陣3軒、脇本陣1軒、民家800軒、人数4000人余りを数えたといわれています。
そして、19世紀前半、(天保期)には、旅籠33軒、家数も253を数え大いに賑わい、
幕末の文久3年(1863)8月には、政変に敗れて長州に逃れる途中の三条実美ら7卿も、
この芥川宿に泊まっています。
芥川宿はJR高槻駅から続く芥川商店街が切れた所にある
「芥川の一里塚」の榎の大木から始まり、
西へ約400mの芥川橋までが宿場でした。
芥川宿では東側の一里塚の榎だけが残っていますが、
今はありませんが、20年程前までは反対側にも榎がありました。
昭和16年(1941)に5月、府の史跡に指定されています。
今でも、古き良き当時の宿場街の面影は、
2階建て漆喰塗り込めの虫籠窓、格子窓などから感じる事ができます。
所在地:高槻市芥川3丁目
大きな地図で見る
宿駅が置かれ寛永年間(1624~44)以降は、
参勤交代の大名行列の通過などで賑わったといわれています。
この地は中世から近世(江戸時代)にかけて、
宿場町芥川・寺内町富田・城下町高槻と互いに関連しながら発展し、
京都と西宮を結ぶ西国街道は、東海道と中国路を結ぶ近道として、
参勤交代や旅客や物資輸送に利用されていました。

[画像:大阪府公式ホームページhttp://www.pref.osaka.lg.jp/kenshi_kikaku/keikan-ustukushii/100kei-018.html2014/03/25アクセス]
宿駅芥川宿は寛文年間(1661~73)には、
本陣3軒、脇本陣1軒、民家800軒、人数4000人余りを数えたといわれています。
そして、19世紀前半、(天保期)には、旅籠33軒、家数も253を数え大いに賑わい、
幕末の文久3年(1863)8月には、政変に敗れて長州に逃れる途中の三条実美ら7卿も、
この芥川宿に泊まっています。
芥川宿はJR高槻駅から続く芥川商店街が切れた所にある
「芥川の一里塚」の榎の大木から始まり、
西へ約400mの芥川橋までが宿場でした。
芥川宿では東側の一里塚の榎だけが残っていますが、
今はありませんが、20年程前までは反対側にも榎がありました。
昭和16年(1941)に5月、府の史跡に指定されています。
今でも、古き良き当時の宿場街の面影は、
2階建て漆喰塗り込めの虫籠窓、格子窓などから感じる事ができます。
所在地:高槻市芥川3丁目
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