高山右近
- 2013/12/21
- 09:00

高山 右近(たかやま うこん 1552~1615)は、
戦国時代末期のキリシタン大名であり高槻城主であった。
多才な人物で、利休七哲の一人に数えられる茶人でもありました。
出身は、摂津国高山(現大阪府豊能郡豊能町)と伝えられます。
父は摂津国人高山友照、母は洗礼名マリア。
同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。
高山右近は、1552年、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。6歳から大和の国 沢城(現在の奈良県宇陀郡榛原町)に住み、12歳のときに父飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)、その後高山親子は芥川城を経て、1570年頃高槻城に入り、1573年父飛騨守が城主となり、同年続いて右近が21歳で高槻城主となりました。
「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立された・・・五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス「日本史」)。1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4,000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれた。同年、高槻の領民25,000人のうち、18,000人(72%)がキリシタンでした。
ところが、1578年に右近の主君である荒木村重が信長に謀反、右近は荒木への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようとするが失敗、一方信長は右近が自分に降らなければ、宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅した。右近は城内にあった聖堂にこもり、祈り、ついに武士を捨てる決心をし、着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長のところへ向かった。結果的には右近の家臣によって高槻城は無血開城、信長に投降したので、信長は右近に再び高槻城主として仕えるように命じ、人質も解放され、この難局はぎりぎりのところで解決したのでした。
1582年本能寺の変で信長が倒れ、安土城は焼失、右近は安土のセミナリオを高槻に移し、また大坂築城に合わせ大坂に教会を建てるのに尽力した。信長の死後秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高など秀吉の側近の多くが入信し、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めた。1585年、右近は明石6万石に転封、明石教会を建設しました。
しかし、1587年、秀吉は突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫ったが、右近は「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」と答えたため、明石の領土を剥奪され、追放され、流浪の身となりました。
淡路島・小豆島などを経て1588年、加賀藩前田利家の招きにより金沢に至り、ここでは「南坊」と名乗って、茶道と宣教に没頭しました。
1612年、徳川幕府はキリシタン禁教令を発布、1614年には右近の国外追放令が出された。右近一家は2月15日雪の中を徒歩で京都に向い、坂本を経て大坂から船で長崎に着いた。長崎から小さな船でマニラへ向かい、43日後に到着、ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を大歓迎しました。
しかし、苦難の道中と不慣れな南国の風土・食物のために身体を弱め、到着後40日ほどで熱病にかかり、1615年2月3日、63歳の生涯を閉じた。マニラ市により葬儀が行われ、イエズス会聖堂に葬られた。いま、マニラの日比友好公園には、高槻城跡公園と同じ高山右近像が立っています。
詳しくはこちら→高槻市カトリック教会
ルイス・フロイスの「日本史」によると、高槻城下である村人が亡くなった時、
当時は賎民の仕事であった棺桶を担ぐ仕事を率先して引き受け、領民を感動させたという。
- 関連記事

- テーマ:高槻市 用語集
- ジャンル:地域情報
- カテゴリ:高槻用語集
- CM:0
- TB:0